ロシアの文豪イワン・ツルゲーネフの作品に邦訳題「貴族の巣」という小説があります。
ソ連時代に映画化もされました。
都会での生活から妻ワルワラの艶聞に嫌気がさして単身故郷に戻った知識人ラブレッキと彼を故郷で優しく迎えたリーザの物語です。
ワルワラの訃報を受け取ったラブレッキは安堵にも似た複雑な思いを抱きます。
しかしワルワラの訃報は偽りでリーザの前にワルワラが現れ、リーザはラブレッキを避けるようになります。
リーザは「修道院に行きます。」と表明します。
リーザはラブレッキに理由を尋ねられて「愛するが故です。」と答えます。
リーザは修道院に入り、ワルワラも都会に戻り、ラブレッキ一人が残ります。
リーザの行動にロシア正教の伝統を背景にしたキリスト教的情愛の精華を見たように感じました。
作者ツルゲーネフの作中末尾の「後日談」がとても印象的です。
角川文庫「貴族の巣」(ツルゲーネフ:米川正夫訳)のP280〜281を引用します。
「これで終わりか?と不満な読者は尋ねるかもしれない。
『いったいラヴレーッキイはどうなったか?リーザは?』
しかし、まだ生きてはいるけれど、もう地上の闘争場裡から退いた人々について、何をいうことがあろう?
なぜ彼らに立ち戻る必要があろう。
ラヴレーッキイはリーザが身を隠している修道院を訪ねて、彼女に会ったということである。
唱歌席から唱歌席へと移って行く時、彼女は彼のかたわら近く通って行った。
いかにも尼僧らしく正しい、せかせかとした、しかもつつましやかな足取りで、彼のほうを見もしないで通り過ぎた。
ただ彼に向けられた片々の眼の睫毛だけがかすかにおののいて、その痩せた顔がいっそう低くたれたばかりである。
――そして数珠を巻きつけたまま堅く握りしめた手の指が、なおしっかりと組み合わされた。
二人は何を考え、何を感じたか?誰がそれを知り、誰がなんといい得よう?
人生にはそうした瞬間が、そういた感情が存在するのもである。
それはただ指さして、――そのまま通り過ぎるよりしかたがない。」
----------以下引用です
「良心は神の出発点であり、天国の起源である。」(文鮮明師『御旨の道』P242)
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